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クリニックの日記

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2018/09/27(木)
「大切にしたいこと」

 9月15日夕刻、私は宮崎のホテルのホールにいた。「久しぶりだね、45年ぶりか〜、いや〜あの時はお世話になった」医学部時代の同窓会で、懐しい顔ぶれと挨拶を交わした。
 古希を過ぎ、それなりに齢を重ねていたが、全員現役医師として頑張っていた。がしかし、鬼籍に入った友の名が呼ばれ、近況報告では癌との闘病中が3人ほどいた。それを聞きながら、改めて朱新仲の「人生の五計」の、老計<いかに年をとるべきか>に加え死計<いかに死すべきか>、今流行りで言えば終活の二字が頭をよぎった。飲める量は少ないが、同窓生の物語を肴に美味しく酔えた夜だった。
   同窓の蘊蓄耳に古酒を酌む 明寛
 翌日は「神話ツワ―」だったので、女房と参加した。ガイドの豊富な知識を聞きながら、鵜戸神宮<山幸彦・豊玉姫神話>、青島神社<山幸彦海幸彦神話>、江田神社<イザナギノミコト禊ぎ神話>、西都原古墳<ニニギノミコト・コノハナサクヤヒメ出会い神話>を訪れ、古事記神話の世界に身を委ねていた。
古事記は物語内容も愉快だが、神々の振舞いには、おおらかさ、おもしろさ、奇抜さがあり魅力的だ。序幕のイザナギ・イザナミ兄妹2神による日本国創生の描写は、現代小説と比較すると微笑ましい。こう書いてある「わが身は、成り成りて成り余っているところがひとところある。そこで、このわが身の成り余っているところを、おまえの成りあわないところに刺しふさいで国土を生み成そうと思う」と。現代の倫理規範からは許されない兄妹神が契りを結び、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、本州の我が日本国土が産まれたのだ。週刊誌を賑わす不倫騒動の根源は、日本神話から脈々とあるのではとさえ思えて、ちょっとおぞましい。火の神を産み亡くなったイザナミを、黄泉の国にまで追いかけるイザナギは、愛情深いと称えるか未練がましいと説諭するか、はたまたストーカー行為と断罪するか、神を人に置き換えると「愛とは何?」という今の時代にも通じる命題だ。イザナギが穢れを洗い落とした江田神社の御池には、畏怖を覚えるほど清らかな白い睡蓮の花が咲いていた。
 畏怖の念と言えば、膝足首手首が痛いと来た80代の媼(おうな)を思い出した。診察や検査の結果、典型的な慢性関節リウマチだったので投薬を初め痛みも腫れも改善した。
そんな経過のある日、小声でこの方が呟いたのだ。「痛みがひどい頃の夜、手首が重たく目が覚めた。よく見ると団子のようなものが乗っていた。手で追い払ったらすぐに消えた。神主さんに相談したら“わらしこ”だと教えてくれた。きっと早く病院へ行きなさいと教えてくれたんだと言われた。実は樹齢300年のタブノキを切ってしまったので、手首の病気は、その祟りではないかと心配していた」そう話しながらずっと手首を触っていた。そう話す表情は、タブノキの霊への畏怖が漂っているようだった。
私は話を聞いて、畏怖の心を持っていることに驚きと羨ましさを覚えた。今や医療でも科学的知識や技術が謳歌し、病気は治るのが当たり前という幻影が大きな顔をしている。しかし医療は今尚多くの不確実性に満ちている。この方の症状も改善したが、タブノキを切ってしまった祖先への申し訳なさやタブノキの霊への畏怖に対して投薬は無力だ。それ故神主さんへの相談を笑止と片づけられない。
 畏怖とは、物事に怖れたじろぐこと、偉大なものに対して畏まり敬うことだ。人は性根の奥深いところに、畏怖する何かを持っていることで、尊大にならず人は勿論、動物や花、道具など身の回りの全てに対して優しく、大切にすることができるのではと思う。
私はこの媼の畏怖する姿に出会い、生命の神秘さ崇高さにあらためて畏怖の念を抱きながら診療する大切さを学んだ。
(清川診療所 坪山明寛)

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