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クリニックの日記

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2018/02/26(月)
「なんにもできない・・・」

 通勤途中の庭先に、黄色い線状の花びらが青空に弾けていた。マンサク(金縷梅)の花だ。数年前にこの花を初めて知ったが、「マンサク」の語源は、春に先ず咲くの意味で、東北弁の「まんず咲く」からとか。好きな花だ。眺めていると、春を待ちわびていた気持ちを愉快にしてくれる。孫も身軽になったのか、急に這ってくるスピードが増してきた。
 まんさくや這い来る手足速さ増す 明寛
 春到来、木々の芽吹きも始まり、さあ元気に歩もうという、今、“ああ それなのにそれなのに ねえ おこるのはおこるのはあたりまえでしょう”というフレーズの歌があったが、まさにこの歌詞のように、怒りたくなるような呟きを診察室で聞くことが多い。
「足腰も痛く、目も薄くなり、なんにも出来なくなった。死んだほうがましじゃ」という類の呟きだ。気持ちは分かる。でもそう言いながら、毎月受診されるところを見ると、死にたいんじゃなくて生きたいのだと確信し、真剣に診察している。
確かに人は何のために生きるか?難しい問いかけである。古今東西の思想家や小説家、がこのテーマで多くを書き残している。聖書には「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4-4)とある。私はキリスト教者ではないので、信者の方がどう解釈されているのか分からない。私は、ただ食べるために生きるのではなく、生きるために食べるという方向性の考えであるが、では「何のために生きているか?どう生きるか」という問いは、今のところ考え続けるしかない。
 最近新聞で読んだ詩がある。とても胸に響いた詩なので紹介する。
親孝行って  佐藤瑞華(中1年)
 親孝行ってお父さんやお母さんの
 お手伝いをすることなのかな
 一番何をすれば喜ぶだろう
 そっと聞いてみた
 一番いい親孝行は
 私たちが生きている事なんだって
 この詩を読んだ時に、生きていることの素晴らしさ、大切さを子供にしっかり教えた両親に拍手した。この子は、親が生きている間は勿論、親が亡くなった後でも、困難に出会い心が折れそうな時には、この教えを思い出し、間違っても「死にたい」とは呟かないだろうと確信した。
 ある日「何にもできなくなった、死んだほうがましだ」と呟いた媼に、この詩を読んであげた。反応は苦笑いだった。その笑いがいい意味であることを願って診療を終えた。
今年の読売文学賞を受賞された保苅瑞穂氏の紹介記事で、フランスの哲学者モンテーニュの「エセー」の一文が紹介されていた。
『人は「私は、今日は何もしなかった」とか言うのである。「何をいうのだ、きみは生きたではないか。それがきみの仕事の中で根本の仕事であるばかりか、一番輝かしい仕事なのだ・・」』と書かれていた。
 この文を読んだ時に、あの3.11の東日本大震災を思い出した。あの時に「生きている」「帰る家がある」ということの有難さをしみじみと感じた。「普通の生活」を毎日味わえる喜びを心底有難いと思った。これは私だけでなく、ほとんどの日本人が感じた真実だと確信する。
 今みてきたように「生きている」という価値は、歴史的哲学者モンテーニュと市井の民である中学生の親の考えは、同じだった。人の価値は、何かができる(能力)かでも、何かを持っている(財産)でもなく、生きている(存在)で十分なのだ。 
 季節の歩みは速く、マンサクから蝋梅、白梅紅梅へと春の足音が高くなっている。なんにもできないと嘆くより、今を生きていることを喜び、春の足音をゆっくり楽しもう。
(清川診療所 坪山明寛)

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