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クリニックの日記

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2017/11/27(月)
「”もうこりた”で生きる」

 寒気が日本列島に雪崩の如く押し寄せてきた。通勤途中に広がる刈田にも、霜の女神青女が舞い踊った跡が見られるようになった
  山の影田にくっきりと霜残る 明寛
 先日、鶴見岳がうっすらと冠雪していた寒い日の朝、別府に講演をしに行った。対象者は来年3月で定年退職される先生方で、教員生活を終えて新しい道に踏み出すにあたっての健康がテーマだった。
 私の父も教員をしていたので、父の姿を重ねながらの話になった。高校の頃には、父の書棚をよく漁って、教育者ルソーやペスタロッチ、内村鑑三などの本を読んでいた。内村鑑三の本の中に「みだりに師となるなかれ」の一節があった。この言葉は、医師としての覚悟を突き付けられているようで、今も私の大切にしているフレーズである。  
 講演の中で、忘れられない先生の話をした。その先生は、退職後わずか5ヶ月余で亡くなったのだ。現職時代には高血圧で診療していたが、退職後から表情が暗くなり、食欲が落ちて痩せてきた。検査しても、これといった病気はなかった。外出もしなくなり家に閉じこもるようになってきた。ある日先生の家族から、自宅での急死の連絡があった。
 何が先生の死に影響したのか、特に生きる意欲を無くしたのは何故なのか。この方は、教職という仕事に、数十年情熱を注ぎ精魂を込めて来た。しかし退職後は何もすることが無くなっていた。教職一筋の生活のために、趣味もなく家庭も顧みず、地域活動にも参加することもなかったので、退職後に目標がすっぽり抜けてしまい、生きるエネルギーが燃え尽きた状態になってしまったのだ。平成2,3年ごろの流行り言葉で言えば、「濡れ落ち葉」状態になっていたのだ。
 職を去るということは、役割を失うことであるが、社会的責任から解放され、ホッとした時間的自由が得られることでもある。
 しかし、このような「時間的自由」には、油断すると怖い刑罰が待っている。それは「自由刑」という刑罰である。自由刑の中身は、懲役ではなく無期退屈が科せられるのだ。
無期退屈という刑は、日々することもなく、テレビを見るか昼寝をするか、お酒を飲むか奥さんの後を「濡れ落ち葉」のように後を付きまとうしかなくなる。こんな生活が長く続くと、所謂「生活不活発病」になってしまう危険性が高い。「生活不活発病」は、体を動かさない状態が長く続くことで、心身の機能が低下することである。具体的には、筋力低下、関節の拘縮、骨の委縮、心肺・消化器機能低下、認知症、うつ病などに悩まされる。先ほど紹介した先生は、まさにこの状態になり、生命力や免疫力まで尽きてしまったのだ。
 「生活不活発病」の危険性は、定年退職者だけでなく、仕事を退いた高齢者にもある。
 では自由刑である無期退屈という牢から、脱獄する鍵はないだろうか。
素晴らしい鍵がある!それは“もうこりた”の生き方をすることだ。「もう懲りた」ではなく『亡己利他』である。これは比叡山延暦寺の開祖最澄大師の言葉で、「己を忘れ他を利する」という意味である。換言すれば「ボランテイア精神」であろう。
 定年退職者や老い人には、自由な時間があり、培った経験や知識、技がある。これらを他の人、特に子供達に分かち与えられる。具体的には「語り部」として、子供達に民話や生死のこと、記憶に残る体験を語り、遊びを伝授することで成長を支えられる。ペスタロッチの言葉に「世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される」とある。家庭や地域が子供を教えてこそ、社会を生きぬく力のある子どもが育つと思う。自由な時間を『亡己利他』の心意気で使うことは、子供達が立派になり、自分は、生活不活発病を招く無期退屈牢から見事に脱獄でき、一石二鳥の生き方である。
(清川診療所 坪山明寛)

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