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クリニックの日記

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2017/08/22(火)
「手に学ばせる」

 或る人にお礼の手紙を書いた。パソコンで考えた文章を、ボールペンを使い、楷書で丁寧に筆写する。緊張で身体が硬直したような感覚になった。というのは、間違えるとまた一から書き直さなければならないと思っているからだ。
 手書きの手紙を書くのは久しぶりだ。手紙に限らず、手書きということをずっとしていなかった。どうしても、便利さと効率が優先してしまうし、すぐに書き直すことができるパソコン上の作業を選ぶ。今回反省させられたのは、漢字を思い出せなかったこと。思ったことと書くことの一体感がなくなったこと。書くことにたどたどしさと違和感を覚えたこと。漢字の練習をしていても、文章を手書きしないということは、これほどの距離感をもたらす。
 ギターで新しい曲を覚えるとき、始めはぎこちない。音符を目で追いながら先ずはゆっくりと弾いていき、少しずつ滑らかで無駄のない運指にもっていく。同じフレーズを何度も繰り返していくと、少し見通しが立つ。ある程度満足するには何千回も弾くことが必要だ。何万回でも厭わないし、それが普通だと思う。頭は違うことを考えていても、手が自ずと動いていく。そういう練習の中から、技術や感性が生まれると思う。境地なんていう大上段に構えた言葉を使いたくはないが、一体感とはそういうものだろうか。
 以前、漢字を忘れないために貝原益軒の「養生訓」を書写する人がいた。隙間の時間が得られれば、それを小学生用のマス付のノートに書きこんでいく。他愛のないことのように思えるが、それを継続した人は自分の血となり肉となっている。元来日本人は、論語を始めとした素読をおこなってきた。声を出すことは記憶する効果があることは経験的に分かっているし、こういう単純な継続が力を持つことは明らかなことだ。同様に、書写することは手が否応もなく覚えるし、己の潜在下の思いとなり、やがて行動化していくのではないだろうか。
 書くことをしなくなり、言葉や漢字が思い出せなくなったとき、僕は一つの時代の終わりのように感じるし、その正体は自責からの寂しさや後悔、或いは生き方の反省や喪失感だと思う。“今日が死ぬ日だと思って生きろ”とテレビで話していたが、こういう言葉が胸を刺さるのは、怠惰な自分を認識しているからに他ならない。時間がない、仕事で忙しい、面倒くさい、いろいろな理由をつけて回避しているが、新渡戸稲造の「武士道」を原文書写するのは、これはこれで刺激的かもしれない。
(甲斐)

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