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クリニックの日記

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2017/07/27(木)
「心の中の恩師」

 それは7月18日(月)だった。午前の診療が終わり、お昼の休憩になり食事をしながらTVのニュースを観ていた時だった。字幕に「日野原先生死去」の文字があった。思わず「えっ!」と声が出て絶句した。しばらくアナウンサーの声に耳を澄ました。「7月18日午前6時33分に亡くなられた。105歳でした」そう言っていた。間違いないのだと確認し、しばらく動けなかった。
 ゆるやかにほぐれて行きし雲の峰 明寛
 日野原先生には直接お会いすることはなかったが、私にとっては恩師だ。心の中の恩師だ。日野原先生の書物を通して、私は医師としての心構えを学んだと言っていい。
 振り返ると、今から40数年前にもなる。私は栃木県の自治医科大学で、血液内科のレジデントとして勤務していた。診療している患者さんは、白血病や悪性リンパ腫など、血液の癌で苦しんでいる方々の診療に、徹夜の続く日々を過ごしていた。
 その頃は、まだ骨髄移植もない時代で、抗がん剤による治療が全盛だった。抗がん剤も今と比べると貧弱だった。日本でも有名な先生方の教えに従い治療しても、助けることは出来ずに、多くの方々が亡くなった。ひどい時は、自分の担当している患者さんが、1週間に7人も亡くなった。さすがに若く元気な自分でも、心が折れるほど打ちのめされたことが多々あった。当時書いた詩がある。
一条のシーツの上に病める乙女の瞳
 “もう帰るなんて言いません
 先生にお任せします“
 徒ならぬ病魔を自覚し耐えることにした
 忍ぶことにした気迫が迫る
 口の中は壊死してしまった
 白血球は二千となってしまった
 高熱は連日身体を苛む
 “先生口が痛い”
 “そうだね ちょっとひどいね 
 もう少し頑張ろうね“
 清らかな瞳が頷く
 私の言葉に安らぎを感じているのだろうか 
 否!であろう
 それでもこの命をじっと見守るしかない
 言葉をかけ診察し手を握り
 眼を見つめ明日もノックしよう
こんな日々の私を支えたのは、日野原先生の著書だった。今も手元にある「癒しの技のパフォーマンス」「平静の心」「延命の医学から生命を与えるケアへ」である。特に「平静の心」は、内科医ウイリアム・オスラーの講演集の翻訳本であった。その中に「諸君は、将来、失望あるいは失敗に見舞われることもあるだろう。敗北に終わる闘いもあり、そのような苦しい闘いに堪えねばならない者も出るだろう。そんな時不幸にめげない明るい平静の心を身につけておくことが望ましい」
という一節があった。 医師は、困難な時にも逃げることなく、「平静の心」で対応せよという言葉に励まされた。また「教養を身につけるためには、ベッドサイドに蔵書を置き、寝る前の30分を聖者と呼ばれる偉大な人物との心の交わりに費やせと」いう教えは、今も習慣になっている。さらに「患者にタッチしないでは、患者の心を悩みを理解できません」「言葉に始まり、言葉で終わる医療」などは、私の心に沁みついている教えである。
 今述べてきたように、日野原重明先生は、私の医療人生で、悩んだ時に手をさしのべ、進む方向性を教えてくださった恩師である。
 その意味で、日野原先生の死は、とても寂しい事だ。しかし幸いに先生の教えは、書物として残っている。この機会に、本を読み返して、今の自分が先生の教えに反していないかを見つめたいと思う。
最後に105歳の長きにわたる、幅広い無私の活動に、「ご苦労様、有難うございました」と感謝しご冥福を祈りたい。
(清川診療所 坪山明寛)

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