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☆ディープに吐露します。☆
2012/09/27(木)
「Xこころ日記(20)情報ボランティア」
コダマという伝承の中の妖怪がいる、山の神などが「人間の声に答えて」その
まま言葉をそっくり返信している、と言う出来事なのだけど、科学を素朴な解
釈で乗り切っていた当時の人々の感性が窺われる。
翻って現在、これだけネットの情報インフラが整備されて、世界中の人々が24
時間「言語」を伝える時代になると、最早「山」どころか、空も地面も宇宙か
らさえひっきりなしに「コダマ」は返ってきている、どれが「山の神」でどれ
が「人間」に当たるのかさえ、既に判らない、そんな「区別」すら既に意味を
なくしているのかもしれない。
それでも…ヒトが最初に「情報」に触れるのは、先ずは「目の前」にいる人か
らであり、それは”ネット”の時代でさえ、そうである。最初に触れてそれに
「答える」、自分自身が「人」であり同時に「コダマ」であると言う事。
しかし、それはとっくの昔に失われた「一対一」であり、今日では余りにも不
遜かつ多数への「支配」と啓蒙のパワーゲームへと易々と置き換えられている
。
それは「責任」であると同時に「相手への敬意や愛着」である筈のコミュニケ
ーションの媒介であった「言語」が今や一個人にさえも、「パワーゲーム」で
あり、新自由主義の奪い合いの場に置き換えられている現象を垣間見させてい
る、そこでのジレンマは「百足人間」的な没我の無理やり縫い付けられた「連
帯(運命共同体)」への母への体内回帰願望の幼児退行じみた欲求であると同
時に、分断した個の「パワー」のわずかなパイの奪い合いでもある。
つまり平たく言うなら「情報」は金銭の食い扶持であり、それを「オリジナル
」として"目立たせたもの勝ち"と言う「人」同士の争いの場においての、お寒
い状況へのアンチテーゼとしての「コダマ」
はもう無い。
「ワタシ(人)」が話して「コダマ(妖怪/神)」が返す、一見、上から下の会
話であっても、寧ろそこにあった「一個人」でしかない”自分”は最早どこに
もない、あるのは
「強くなりすぎた支配する暴走コダマ」を無視することも、”特別”
とすることも出来ない現代人のジレンマだけ。
ある人が「目の前にいる自分」を無視してたかが”一個人(人)”であり同時
に「親しみ」としての身体性をなくし、「支配するコダマ(情報)」のみを珍
重して啓蒙する様に悲しみを覚えても、途方にくれるしかないのだ。
こうなれば大多数のパイ(情報支配)の担い手として零れ落ちた人々は、ネッ
トの時代には「自分=人」ではなく「弱い発信の情報ボランティア=無人」と
して、抑圧された気持ちのままもんもんと過ごすしかなすすべはないのだろう
か?
「それは自分が言ったこと」は行き過ぎたら自我の肥大化であり、病理にもな
り得るけれども「目の前」のコミュニケーションとして「受け止める」重要性
は人としての対話の基本であり、
”気持ち”の交換としてのたかが”個人”で
あり、大切な「個人」との「一対一」の復活は情報の洪水に寄らないで、ぶつ
切りになりつつも宙ぶらりんに無理やり”ヒモ付け”された現代の病んだ身体
から、自然/宇宙への繋がりを取り戻すリハビリになるかもしれない。
「ワタシ(人/コダマ))」と「あなた(コダマ/人)」の穏やかな対話として
。
それが”無人”化へと加速し始めた現代の暴力と支配と分断への最も簡単で”
強い”対抗手段かもしれない。
まま言葉をそっくり返信している、と言う出来事なのだけど、科学を素朴な解
釈で乗り切っていた当時の人々の感性が窺われる。
翻って現在、これだけネットの情報インフラが整備されて、世界中の人々が24
時間「言語」を伝える時代になると、最早「山」どころか、空も地面も宇宙か
らさえひっきりなしに「コダマ」は返ってきている、どれが「山の神」でどれ
が「人間」に当たるのかさえ、既に判らない、そんな「区別」すら既に意味を
なくしているのかもしれない。
それでも…ヒトが最初に「情報」に触れるのは、先ずは「目の前」にいる人か
らであり、それは”ネット”の時代でさえ、そうである。最初に触れてそれに
「答える」、自分自身が「人」であり同時に「コダマ」であると言う事。
しかし、それはとっくの昔に失われた「一対一」であり、今日では余りにも不
遜かつ多数への「支配」と啓蒙のパワーゲームへと易々と置き換えられている
。
それは「責任」であると同時に「相手への敬意や愛着」である筈のコミュニケ
ーションの媒介であった「言語」が今や一個人にさえも、「パワーゲーム」で
あり、新自由主義の奪い合いの場に置き換えられている現象を垣間見させてい
る、そこでのジレンマは「百足人間」的な没我の無理やり縫い付けられた「連
帯(運命共同体)」への母への体内回帰願望の幼児退行じみた欲求であると同
時に、分断した個の「パワー」のわずかなパイの奪い合いでもある。
つまり平たく言うなら「情報」は金銭の食い扶持であり、それを「オリジナル
」として"目立たせたもの勝ち"と言う「人」同士の争いの場においての、お寒
い状況へのアンチテーゼとしての「コダマ」
はもう無い。
「ワタシ(人)」が話して「コダマ(妖怪/神)」が返す、一見、上から下の会
話であっても、寧ろそこにあった「一個人」でしかない”自分”は最早どこに
もない、あるのは
「強くなりすぎた支配する暴走コダマ」を無視することも、”特別”
とすることも出来ない現代人のジレンマだけ。
ある人が「目の前にいる自分」を無視してたかが”一個人(人)”であり同時
に「親しみ」としての身体性をなくし、「支配するコダマ(情報)」のみを珍
重して啓蒙する様に悲しみを覚えても、途方にくれるしかないのだ。
こうなれば大多数のパイ(情報支配)の担い手として零れ落ちた人々は、ネッ
トの時代には「自分=人」ではなく「弱い発信の情報ボランティア=無人」と
して、抑圧された気持ちのままもんもんと過ごすしかなすすべはないのだろう
か?
「それは自分が言ったこと」は行き過ぎたら自我の肥大化であり、病理にもな
り得るけれども「目の前」のコミュニケーションとして「受け止める」重要性
は人としての対話の基本であり、
”気持ち”の交換としてのたかが”個人”で
あり、大切な「個人」との「一対一」の復活は情報の洪水に寄らないで、ぶつ
切りになりつつも宙ぶらりんに無理やり”ヒモ付け”された現代の病んだ身体
から、自然/宇宙への繋がりを取り戻すリハビリになるかもしれない。
「ワタシ(人/コダマ))」と「あなた(コダマ/人)」の穏やかな対話として
。
それが”無人”化へと加速し始めた現代の暴力と支配と分断への最も簡単で”
強い”対抗手段かもしれない。