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godhandの日記

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2022/12/16(金)
「ものの考え方」

「死」は、死んだあとの人にはしっくりこない表現です。全然死んでないからです。
死んだらもう動かないし、放っておけば腐ってくるんだろうけど、それは肉体をもっている側から受け取れる目の前の風景です。
例えばあなたが高い所から飛び降りて死んだとして、まわりの人が死んだと思っても、あなた自身にとっては肉体を失った後の現実を受け入れるだけです。死んだあとの続きを知りたいでしょうが、続き、とか知る、とかは生きている人の世界で使われるものであって、死んだ後には生きている頃とはだいぶ違うものの見方の世界が待っています。そういう意味で、全然死んでないです。仏教はちゃんと南無妙法蓮華経と本気で唱えてあげれば、死んだ後だって幸せにできるし幸せになれます。「生も歓喜、死も歓喜」。全然遅くない。

地球、太陽、太陽系、銀河、望遠鏡でいろいろな天体やらエネルギーやらが観測できるそうですが、眼に見えるそういうものは、宇宙全体として、5%に過ぎない。あとの95%はダークマターとダークエネルギーだそうです。つまり、正体不明の物質とエネルギーがほとんど。科学的に誰もがあーなるほど、と納得できる道理は宇宙に関しては5%しかありません。月は人工物だの火星移住計画だの
バカみたいな都市伝説が盛んですが、宇宙の本質は見えない部分にあります。そしてそのことについていくら説明を試みたところで誰も話についてこられないです。ものの見方がひとつしかないから、まず言葉が見あたらない。人類は宇宙どころか自分自身のことですら永遠にわかるわけがないです。

目に見えるもの、建物風景、自分自身も含めて、全部にせものです。自分自身があるじゃないか、と思ったところで、大きい時間軸で見たとき、100年後には灰になってるものなんて、それは存在していないものと一緒。仏教の教えの本質はそういうものです。悲観ではなく、だからものを思える時点で、南無妙法蓮華経と唱えて浄土の地を踏もうとするんです。字を書くことができる能力があろうものなら法華経を写経して浄土の地を踏もうとするんです。地を踏もう、というか炭酸水のように上昇するというか、生死を越えた境地の感覚は、やはり言葉が見あたらないけれども、とてもそれはそれは素晴らしい境地です。釈迦は悟りを開いた後、梵天に説得されて人に教えを説く前に、その悟りの境地を3日だか3か月だか楽しんだそうだけれども、私はずるいと思いました。私は30秒ほど味わったところでストンとおしまいにされてしまったから。もう一回、あの境地を味わいたい。30秒悟りを開いただけでこんなにありありともう一度って思うのに、3日間ずっと?3か月間ずっと?お釈迦さまずるい。悟り中毒ですよ。一度だけ味わっておしまいって。仏道修行が全然足りないからしょうがないけど。多分諸天善神がもののはずみに、悟るとはどういうことかをほんのちょっとだけ見せてくれたんだと思います。自分の中身がモーンとかボーンとかいって上昇していく感じ。そういう表現も正確ではないんだけども。おいしいものを食べた、とかすごくいいことをして人に感謝された、とかすごくいい男とやって気持ちよく射精した、とかですら、そういうものとは全然違う快感。気持ちいいなんて言葉ではとても表現できない。魔王に対しても嗤える感じ。人が死ぬ瞬間の恍惚感なんてたかが知れてそうだもの。
古来、すごく極端な修行をして悟りを得ようとした人の話をよく聞くけど、あの境地に至るためなら全然やれるんじゃないかと思ったりする。でもそれで本当に私と同じ境地になった人がいたのかも疑問だけれども。多分なっていないかもしれない。南無妙法蓮華経と唱えないかぎり。正直いってあの時、唱えていないときに悟りを開けたんだけど、もし南無妙法蓮華経と口に出していたなら30秒で終わらなかったと思います。いったん全開、開いて、ちょっとしたらはいおしまい、って降ろされた感じ。悟っている間は、これが悟りを開くっていうのかーー!!!って感じですけど。ほんの一瞬のイリュージョンでした。

ムーンショットなんていって、2050年までに脳の制約からの解放だの空間、時間の制約からの解放だの、内閣府がムーやらテレ東やらみたいなこと本気で言ってるけど、そんなことメタでも何でも科学がどんなに進んだところで絶対にできっこない。仏道修行しない限り。脳やら空間やらの解放は、誰かにやってもらうんじゃくて、2050年を待たずして自力で自分の信仰で今すぐできます。

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