無料ケータイHP

godhandの日記

累計アクセス:106069
2021/11/10(水)
「一滴のことで悩んではいけない」

たった「一滴」の水も、地面に堕ちればポチャッと蒸発して終わりですが、「大海」に落ちれば大海の一部になり、それは大海そのものになるということです。

一滴(あなた)が、大海に帰依することによって大海(大宇宙)そのものになるのです。

一滴と大海は日蓮大聖人の譬えですが、一般的な仏教用語では前者を小我、後者を大我といいます。

五木寛之さんの小説に『大河の一滴』がありますが、このことについて書かれているんだと思います。ひと文字も読んでないからわかりませんが。多分自分の悩みも、死ねば大河になるんだから気にするな、みたいな内容なんだと思います。仏教をネガティブなことを言っている、と思っている人がいかにも思いつきそうな感じ。読んでないからわからないけど。

一滴でも死ねば大海になれるんだ、と考えるのは大間違いです。大海の真上に位置して大海に落ちる重力くらいの努力は必要です。そして、死ぬんじゃなくて生きている間に大海になろうとするのが一本筋の通った姿勢です(一生成仏)。

そのわずかな努力とは何か。それはただただ南無妙法蓮華経と唱えることです。

「一期を過ぐること程もなければ」一生が過ぎ行くのはわずかな間であるから、

ひと言でも多く南無妙法蓮華経を唱えた方がいいです。お金や生活やら仕事やら老後やら、そういうのは一滴の中の、表面張力に浮き出た小さな模様です。模様というかシミというか汚れ。意味のないものだから。そんなことで悩んではつまらない。そんなことで悩むのなら、一滴が大海に落ちるにはどうしたらいいかを想像してみてください。釈尊は家族も財産も一族も人の信頼も全て捨てて出家しました。日蓮大聖人は全てをはぎ取られて土牢に閉じ込められても処刑人に頸を切られそうになっても一切動じませんでした。心配する愛弟子に対して「笑えぞかし」と言った後、目を閉じてまぶたの裏の南無妙法蓮華経を読みながら斬首されるのを待っていました。全然平気でした。身に起こったことは全部、一滴の問題に過ぎないと知っていたからです。ネガティブだからではなく確たる決意。日蓮大聖人はむしろ自分を守ろうとしない神々に説教したくらいですから。大海には誰でもなれます。



ログイン


無料ケータイHP


FC2無料ケータイHP