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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2015/03/12(木)
「100年たってようやく‥(2)」

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こんばんは。。。




“辺境への志向”と言ったらよいのでしょうか‥‥「起源への志向」「北方への志向」と秋枝さんが言っていることに、かなり重なるのですが‥「辺境」というとそこには一定の価値観が前提されてしまいます。北海道を、サハリンを、東北の山間地を「辺境」と呼ぶと、一定の見方が前提されざるを得ないのです。その意味では、価値中立的な「起源」「北方」のほうがよいのかもしれませんが、‥

他方で、同時代の征服的な「北方」志向や「南方」志向と、宮沢賢治の志向との区別があいまいになりやすいです。宮沢賢治の志向は、たしかに『春と修羅』以前には、社会体制に規定された征服的志向と区別の付かないものだったと思います。しかし、それ以後は明らかに異質で、“辺境への志向”と正しく呼んでいいものだと思うのです。

そこに、同時代の日本人一般の思潮とは明らかに異質なものをギトンは感じます。“啄木の正統な後継”と言ってよいと思うのです。

それで、“辺境への志向”というキャッチフレーズを使おうかどうしようか、まだ迷っています。




やや先走りになってしまいますが‥、宮沢賢治が、その“後半生”で目指したことは、“前半”での《心象スケッチ》の延長ではあるんですけれども、それをもっと広いスケールでやろうとしたのだと思います。

《心象スケッチ》は“記録”だと──賢治作品は記録なのか、詩ないし文学なのか、という評価の問題は暫く置いて──少なくとも作者自身は、かなり強く“記録”性を意識してやっていた、

そういう“記録”の意識で、“辺境”が“辺境”にされ周縁部に押し込められてゆく過程──、“中心部”が“辺境”を圧迫し、さらにその“辺境”をも乗り越えて、どんどん外部へ向かって膨張していこうとするその過程──を、

その“中心部”において書いた者、‥中心部には、膨張してゆくための“核”となるイデオロギーがあるわけですが、自ら中心部に在って、このイデオロギー(この言葉を賢治は何度か使っています)から免れている者、あるいは距離を置いている者だけが持ちうる眼で、賢治は見、そういう者だけが書きうる“記録”を、書いたのではないか?


↑これでは抽象的すぎますが、あらかじめ予告しますと‥こんなことを考えています。






池澤さんからの引用を、もう少しつづけたいのですが:


「特に最近,宮澤賢治は一種の崇拝の対象になってしまって、彼の内部に読者の考えが切り込んでいかない。崇拝されても彼も困るんだろうと思います。〔…〕読み解くためには努力がいる、力がいる、集中がいる。〔だから視野が狭くなって対象を崇めてしまいやすい──ギトン注〕ただそのことと彼が一人の人格者であって、言ってみれば彼が生きるように皆が生きればいいんだということとはちょっと違う。僕はなるべく個人崇拝にならないように宮澤賢治を読んできましたけど,そういう抑えが必要な気がしています。」


ここで池澤さんは「最近」と言っていますが、昔からではないか‥むしろ最近は、いくらかましになってきているのではないかと、ギトンは思うのですが‥、それはともかく、

最近では“宮澤賢治研究”というのが一個の領域分野になってしまっていて‥、表側から言えば、作家研究としては世界的な水準と言われるほどのものになっているのですが、裏から見ると、一種閉鎖的な垣根をこさえてしまっている。宮沢賢治自身に宗教家の面があったということも、そこに影響しているんでないかと思います。誤解を恐れずに言えば、擬似宗教教団の要素を持ってしまっています。

しかし、それはもう既成事実ですし、じっさいに賢治研究を推進する力になっているのも事実ですから、それを前提にしていかないとならないのですが‥、

そうすると、そういう“賢治研究プロパー”の人たちと、そうでない人たちとの間でコミュニケーションを図って、そこから何かを生み出して行こうとするためには、一種の“学際研究”の心構えが必要になってくるのかも知れません。












ばいみ〜 ミ
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