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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2015/03/11(水)
「100年たってようやく‥(1)」

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こんばんは。。。





2004年に立命館大学で開かれた連続シンポジウム「先住民という言葉に内実を与えるために」の第4部:

「同時代人としての知里幸恵と宮澤賢治」

は、シンポの記録を読んで感銘を受けました。(ギトンは、秋枝さんがパネラーの一人になっているので、立命館の紀要で読んでみたのですが、期待以上のものがありました。)




シンポ自体は単行本になっていないようなので、ここで何回かに分けて内容を紹介したいと思います。

知里幸恵をご存知ない方もいると思いますが、宮沢賢治と同時代──9年ほど遅く生まれ、1922年に19歳で亡くなったアイヌの少女です。アイヌ語学者として有名な知里真志保は、彼女の弟です。

19歳で亡くなりましたが、『アイヌ神謡集』という不朽の著作を残しています。これは、アイヌの口承の神謡カムイ・ユカラを、ローマ字で文章化し、自身で日本語に翻訳したもの。しかし、日本語訳の部分も、単なる翻訳であることを超えて、日本語の詩として、最近再評価されるようになりました。

賢治の1921年の東京滞在とは行き違いかもしれませんが、知里幸恵は、1922年に東京に移って亡くなっています。生れつきの心臓病だったそうです。しかし、盛岡出身のアイヌ語学者・金田一京助という、両者を繋ぐ人物の存在から、この二人は。。。 少なくとも賢治のほうは、幸恵のアイヌ神謡集(1922.8.発行)、あるいはその発行前の口伝てでも影響を受けたのではないかという推測が、されはじめています。
知里幸恵じたい、注目されるようになったのは最近のことなので、まだまだこの領域は未開拓です。


しかし、これは‥‥賢治を理解する鍵かもしれない。。。 そんな気がしました。




シンポのあとの討論で、作家の池澤夏樹さんが:

「こんなことが今、僕たちにも言えるようになってきた,宮澤賢治の像がすごく変わってきた,ようやく我々として自負すれば,宮澤賢治が本当に豊かとは何かが,こんなに時間が時間がたったけど,見えてきたというのが,〔…〕うれしい感想でありました。」

と仰っているのが印象的です。


この「すごく変ってきた」の内容が、‥ギトンがこれまで、折りに触れてもらしてきた賢治観と、ひじょうに重なるのです‥ 自分だけが市井で、こんなことを考えているのだろうと思っていたのですが、やはり頭のいい人たちは気がついていました。しかも、13年前に!



池澤さんの発言を、もう少し前から引用しますと:

「日本列島にいろいろな人々が次から次に入ってきて、力関係で、後からきた者が強いと、先住民を取り込んで一段下、二段下の民に仕立てていく。そういう延々たる過程の果ての今という瞬間です。今はまた別種の人たちが入ってきていますね。それら全体が人間の歴史だとしたら、何ともやりきれない,見ればみるほど嫌になってしまうという思いと、それを書きとめて先に進めるために残さないといけないという強い衝動の間で、宮澤賢治は一生過ごしたと思うんです。自分は征服した側にいる。〔…〕でも誰かが書かないといけない。〔…〕歴史全体に戻ってだから、やりきれなさ、そこを読み取るのが宮澤賢治を読む時の、今にして思えば大事なポイントではないかと思います。」


池澤さんの言う「宮澤賢治は‥自分は征服した側にいる。」を、「これから征服しようとたくらむ側にもいる」と読み替えたら、ギトンの視点に近くなります。そうした宮沢賢治の“読み方”が、いま、ぜひとも必要だと思います。











ばいみ〜 ミ
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