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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。
2015/02/08(日)
「花巻・盛岡紀行───七ツ森から毒ヶ森」
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こんばんは。。。
そこで今度はウラから‥‥‥《七ツ森》から見た紫波山塊です↓↓
松の枝で見えにくいですけど、生森頂上からの展望です。
左から右へ、箱ヶ森(大きい山)、南昌山(奥の小さい釣鐘形)、毒ヶ森(大きい釣鐘)、大石山(手前で小さい)、東根山(頂上が平ら)、西東根山、高倉山(半分だけ見える)。
生森の山名標示板で確認しましたから、まちがえないと思います。
「しろがねの
雲ながれ行くたそがれを
箱ヶ森らは黒くたゞずむ。」(歌稿B 497)
紫波山塊の峰々が、みな釣鐘型に突出しているのと対照的に、《七ツ森》は、低くてずっとおだやかな形をしています。
それでも、頂上が広くて休んだりできるのは、生森(おおもり)と勘十郎森くらいです。生森頂上には、NHKのテレビ塔と、あずまややら広い芝生があって、遠足に来るにはよさそうな。。。
ただ、道が‥ けわしいんではないです。その逆で、カタツムリみたいなラセンの自動車道が巻いてて、ふつうに登るにはそれしかないので、かったるいかったるい……
じつは、等高線と直角にまっすぐ登るショートカットができていて…ただ、それが、どこから入るか分かりにくいので、道をよく知らないと、ラセンをぐるぐる歩くことになります。。
ラセンって、どこもみな同じ景色だから、自分が今どこにいるか分からない
やっと頂上について休んでたら、地元の方が直登コースをスイスイのぼって来られたので唖然。。。
下りはまた下りで、テレビ塔に電気を引いてる電線の下をスイっと降りて行かれました。。。
「七つ森いまは坊主のなゝつ森ひかりのそこにしんと沈めり」(歌稿A 536)
いまは、7つの丘のどれもみな、びっしりと松林が繁ってますが、↑宮沢賢治の時代には、草原になってるとこもあったようですね。
「月をうけし七つ森のはてのひとつなり、
さびしき谷をうちいだくもの。
〔…〕
七つ森の三つがなかの一つなり、
貝のぼたんをあまた噴くもの。
月の下なる七つ森のはての一つなり、
けはしく白く稜立てるもの。」(〔鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし〕『文語詩稿一百篇』より)
↑生森の頂上は、昔はもっと尖って高かったんでしょうか?…それとも、木立ちで尖って見えた?
ともかく、今は上はまんまるく平らだし、木もまばらで明るい丘です。
↓これも生森のようです。
「いまきらめきだすその真鍮の畑の一片から
明暗交錯のむかふにひそむものは
まさしく第七梯形の
雲に浮んだその最後のものだ」(「第四梯形」『春と修羅・第一集』より)
「真鍮の畑」も、今は全面的に水田化していますね。
「北面のみうす雪置きて七つ森はるかに送るわかれのことば」(歌稿A 742)
「ひやゝかに雲うちむすび七つ森はや飯岡の山かげとなる」(歌稿A 743)
飯岡山は、盛岡市の南西、箱ヶ森の北麓にある低い山です。《七ツ森》が飯岡山の向こうに隠れる、ということは、東北本線で盛岡から花巻方面に向かっています。
この2首は、1920年1月ころのようですから、高等農林で2つ下の学年も卒業を迎え、親しい関教授も東京へ転出してしまい、学校にはもう知る人が居なくなったさびしさかな?。。。
ばいみ〜 ミ彡
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こんばんは。。。
そこで今度はウラから‥‥‥《七ツ森》から見た紫波山塊です↓↓
松の枝で見えにくいですけど、生森頂上からの展望です。
左から右へ、箱ヶ森(大きい山)、南昌山(奥の小さい釣鐘形)、毒ヶ森(大きい釣鐘)、大石山(手前で小さい)、東根山(頂上が平ら)、西東根山、高倉山(半分だけ見える)。
生森の山名標示板で確認しましたから、まちがえないと思います。
「しろがねの
雲ながれ行くたそがれを
箱ヶ森らは黒くたゞずむ。」(歌稿B 497)
紫波山塊の峰々が、みな釣鐘型に突出しているのと対照的に、《七ツ森》は、低くてずっとおだやかな形をしています。
それでも、頂上が広くて休んだりできるのは、生森(おおもり)と勘十郎森くらいです。生森頂上には、NHKのテレビ塔と、あずまややら広い芝生があって、遠足に来るにはよさそうな。。。
ただ、道が‥ けわしいんではないです。その逆で、カタツムリみたいなラセンの自動車道が巻いてて、ふつうに登るにはそれしかないので、かったるいかったるい……
じつは、等高線と直角にまっすぐ登るショートカットができていて…ただ、それが、どこから入るか分かりにくいので、道をよく知らないと、ラセンをぐるぐる歩くことになります。。
ラセンって、どこもみな同じ景色だから、自分が今どこにいるか分からない
やっと頂上について休んでたら、地元の方が直登コースをスイスイのぼって来られたので唖然。。。
下りはまた下りで、テレビ塔に電気を引いてる電線の下をスイっと降りて行かれました。。。
「七つ森いまは坊主のなゝつ森ひかりのそこにしんと沈めり」(歌稿A 536)
いまは、7つの丘のどれもみな、びっしりと松林が繁ってますが、↑宮沢賢治の時代には、草原になってるとこもあったようですね。
「月をうけし七つ森のはてのひとつなり、
さびしき谷をうちいだくもの。
〔…〕
七つ森の三つがなかの一つなり、
貝のぼたんをあまた噴くもの。
月の下なる七つ森のはての一つなり、
けはしく白く稜立てるもの。」(〔鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし〕『文語詩稿一百篇』より)
↑生森の頂上は、昔はもっと尖って高かったんでしょうか?…それとも、木立ちで尖って見えた?
ともかく、今は上はまんまるく平らだし、木もまばらで明るい丘です。
↓これも生森のようです。
「いまきらめきだすその真鍮の畑の一片から
明暗交錯のむかふにひそむものは
まさしく第七梯形の
雲に浮んだその最後のものだ」(「第四梯形」『春と修羅・第一集』より)
「真鍮の畑」も、今は全面的に水田化していますね。
「北面のみうす雪置きて七つ森はるかに送るわかれのことば」(歌稿A 742)
「ひやゝかに雲うちむすび七つ森はや飯岡の山かげとなる」(歌稿A 743)
飯岡山は、盛岡市の南西、箱ヶ森の北麓にある低い山です。《七ツ森》が飯岡山の向こうに隠れる、ということは、東北本線で盛岡から花巻方面に向かっています。
この2首は、1920年1月ころのようですから、高等農林で2つ下の学年も卒業を迎え、親しい関教授も東京へ転出してしまい、学校にはもう知る人が居なくなったさびしさかな?。。。
ばいみ〜 ミ彡
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