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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。
2014/06/14(土)
「充電完了ピピッ(1)」
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こんばんは
ぎとんです^^
ここしばらくEブックの更新が止まってるのにお気づきでしょうか?
こっちと追っかけっこになってしまったので、こっちを先に行かせようと思って休んでるんです‥
れとまぁ‥通し番号の【50】を過ぎて、作品の数でも量でも半分を越えたあたりだから、
ここで一休みして、来たほうを振り返っておくには、ちょうどいいんですよ。。。
なので、更新は休んで充電 ミさせてもらってました。
で、この間に読んだものは:
栗谷川虹さんの@『見者(ヴォワイヤン)の文学』、A『宮沢賢治 異界を見た人』(角川文庫10279)
Aは@の文庫化ですが、@収録のうち、あまり一般読者向きでない数ページと1篇を削っていますから、これらは両方読む必要があります。
じつは@は去年のゴールデンウィークに例の《虔十書林》(もう店の名をばらしてしまいますけど、東京近くの賢治ファンの方はぜひ行ってみてください。)で買ってそのままツン読してたんですけど、
この機会に読んでみて、ギトンがいままで暗中模索で考えていたことに、ずいぶん近いと喜び────またそれを、ギトンはまったく知らないフランス文学:ランボー etc.の素養にのせて議論にしておられるのをみて──ずっと先を走っていた偉大な先輩を、遅ればせながら見出した思いでいっぱいです(^^)ノ
一般的な《鑑賞史》としても、この1980年代以降の傾向の一つとして、賢治作品の“神秘”な、あるいは荒唐無稽な部分を、たんなる比喩として読み過ごさないで、あえて正面にすえて、そこを起点にして宮沢賢治を理解しよう、論じようとする方向があります。
この方向で先見の明があったとされる小沢俊郎氏をはじめ、天沢退二郎氏、栗原敦氏など、この時期以後に活動した高名なプロの研究者が書いたものには、あちこちで‥こうした“賢治の見た神秘界”、あるいは“神秘界を見た賢治”についての言及があります。
しかし、栗谷川氏ほど端的に‥はっきり、ズバリと‥つまり、わかりやすく言ってくれた人は他にいなかったのではないかと思います。
栗谷川氏の議論の土俵は、おもに『春と修羅』第1集‥ことにその前半部分なので、ギトンがいま頭を悩ましている対象について、ズバッと切り込んでくれる議論は、たいへんありがたいのです。。。
そして、氏の議論の優れた点は、賢治の見た《心象》──栗谷川氏によれば、それは《異界》《神秘界》と、ほぼイコール──に注目するだけでなく、その《心象》を見る主体(見る者 voyant)、自我の側の条件──そもそも作者の側で主体・自我が分裂崩壊に瀕しているからこそ、《異界》のような非日常的なものが見えてしまうのですが‥──を細心に跡づけて行こうとします。。
『春と修羅』の章を追って‥章ごとに、《心象》の構造が変化するのと対応して、主体の側の条件にも進展が見られるのです。。。
ただ‥ ギトンとしては、いま、とにかく全作品をひとつももらさず風呂敷に入れて行こうという立場なので、
栗谷川氏の‘図式’は‘図式’として参照しながらも、個々の作品をその図式にあてはめるというのではなく、
じっさいの作品は作品として、あらためて虚心に見て行く必要があると思っています。
それにしても、栗谷川氏のようなすぐれた‘素人研究家’(じつは、プロの学者か批評家が別名で書いているのかもしれないのですが‥)の書いたものを読んでいると、
いったい「宮沢賢治」という既存の作家について‥とくにその作品について、こういう文を沢山書いて──そもそも書けてしまうのが不思議というか問題点なのかもしれない──公表することに、どんな意味があるのだろう‥ということを深く考えてしまいます。
つまり、それははたして、多くの時間を費やして、人生の課題のようにして努力する価値のあることなのだろうか‥ということなのです。。
これは無駄なことではないか?もっと多くのネット読者を獲得できる創作小説や、コメントのつくような内容のブログ(どうすればコメントが付くか、他での経験でよく分かっているのですが、あえてそれをしないのですw)──ほかの活動に力を振り向けたほうがよくはないか?? という疑問が念頭を離れることはありません。
もちろん、それだから、今やっている《全詩解読》をストップするとか、減速することは、全くありえないのですが。。。
これが終ったら、ミヤケンは少し休んで、ほかの活動や、“書く”以外のことで視野を広げようということも、考えなくはないですねw
このテーマ、明日につづきますので……
ばいみー ミ彡
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こんばんは
ぎとんです^^
ここしばらくEブックの更新が止まってるのにお気づきでしょうか?
こっちと追っかけっこになってしまったので、こっちを先に行かせようと思って休んでるんです‥
れとまぁ‥通し番号の【50】を過ぎて、作品の数でも量でも半分を越えたあたりだから、
ここで一休みして、来たほうを振り返っておくには、ちょうどいいんですよ。。。
なので、更新は休んで充電 ミさせてもらってました。
で、この間に読んだものは:
栗谷川虹さんの@『見者(ヴォワイヤン)の文学』、A『宮沢賢治 異界を見た人』(角川文庫10279)
Aは@の文庫化ですが、@収録のうち、あまり一般読者向きでない数ページと1篇を削っていますから、これらは両方読む必要があります。
じつは@は去年のゴールデンウィークに例の《虔十書林》(もう店の名をばらしてしまいますけど、東京近くの賢治ファンの方はぜひ行ってみてください。)で買ってそのままツン読してたんですけど、
この機会に読んでみて、ギトンがいままで暗中模索で考えていたことに、ずいぶん近いと喜び────またそれを、ギトンはまったく知らないフランス文学:ランボー etc.の素養にのせて議論にしておられるのをみて──ずっと先を走っていた偉大な先輩を、遅ればせながら見出した思いでいっぱいです(^^)ノ
一般的な《鑑賞史》としても、この1980年代以降の傾向の一つとして、賢治作品の“神秘”な、あるいは荒唐無稽な部分を、たんなる比喩として読み過ごさないで、あえて正面にすえて、そこを起点にして宮沢賢治を理解しよう、論じようとする方向があります。
この方向で先見の明があったとされる小沢俊郎氏をはじめ、天沢退二郎氏、栗原敦氏など、この時期以後に活動した高名なプロの研究者が書いたものには、あちこちで‥こうした“賢治の見た神秘界”、あるいは“神秘界を見た賢治”についての言及があります。
しかし、栗谷川氏ほど端的に‥はっきり、ズバリと‥つまり、わかりやすく言ってくれた人は他にいなかったのではないかと思います。
栗谷川氏の議論の土俵は、おもに『春と修羅』第1集‥ことにその前半部分なので、ギトンがいま頭を悩ましている対象について、ズバッと切り込んでくれる議論は、たいへんありがたいのです。。。
そして、氏の議論の優れた点は、賢治の見た《心象》──栗谷川氏によれば、それは《異界》《神秘界》と、ほぼイコール──に注目するだけでなく、その《心象》を見る主体(見る者 voyant)、自我の側の条件──そもそも作者の側で主体・自我が分裂崩壊に瀕しているからこそ、《異界》のような非日常的なものが見えてしまうのですが‥──を細心に跡づけて行こうとします。。
『春と修羅』の章を追って‥章ごとに、《心象》の構造が変化するのと対応して、主体の側の条件にも進展が見られるのです。。。
ただ‥ ギトンとしては、いま、とにかく全作品をひとつももらさず風呂敷に入れて行こうという立場なので、
栗谷川氏の‘図式’は‘図式’として参照しながらも、個々の作品をその図式にあてはめるというのではなく、
じっさいの作品は作品として、あらためて虚心に見て行く必要があると思っています。
それにしても、栗谷川氏のようなすぐれた‘素人研究家’(じつは、プロの学者か批評家が別名で書いているのかもしれないのですが‥)の書いたものを読んでいると、
いったい「宮沢賢治」という既存の作家について‥とくにその作品について、こういう文を沢山書いて──そもそも書けてしまうのが不思議というか問題点なのかもしれない──公表することに、どんな意味があるのだろう‥ということを深く考えてしまいます。
つまり、それははたして、多くの時間を費やして、人生の課題のようにして努力する価値のあることなのだろうか‥ということなのです。。
これは無駄なことではないか?もっと多くのネット読者を獲得できる創作小説や、コメントのつくような内容のブログ(どうすればコメントが付くか、他での経験でよく分かっているのですが、あえてそれをしないのですw)──ほかの活動に力を振り向けたほうがよくはないか?? という疑問が念頭を離れることはありません。
もちろん、それだから、今やっている《全詩解読》をストップするとか、減速することは、全くありえないのですが。。。
これが終ったら、ミヤケンは少し休んで、ほかの活動や、“書く”以外のことで視野を広げようということも、考えなくはないですねw
このテーマ、明日につづきますので……
ばいみー ミ彡
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