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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。
2013/06/27(木)
「同性愛者の初恋(2)」
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「痩せて青めるなが頬は
九月の雨に聖[きよ]くして
一すじ遠きこのみちを
草穂のけぶりはてもなし」
(『文語詩未定稿』より)
文語詩〔青柳教諭を送る〕は、賢治作品の例に漏れず、幾度もの再考と改作を重ねて、↑上の最終形態にたどりついているのですが、
先駆形(いずれも、「小岩井農場」よりはずっと後のもの)の中から、目につくものを拾ってみますと:
「 青柳教諭を送る
秋雨にしとゞにぬれて
きよらかに頬瘠せ青み
師はいましこの草原を
ただひとりおくれ来ませり
羊さへけふは群れゐず
玉蜀黍[きび]つけし車も来ねば
このみちの一すじ遠く
雨はたゞ草をあらへり
友なさは高くわらひそ☆
愛しませる☆かの女[ひと]を捨て
おもはざる軍[いくさ]に行かん
師のきみの頬のうれふる☆を
南なる雨のけぶりに
うす赤きシレージの塔
かすかにもうかび出づるは
この原もはやなかばなれ」
【下書稿(1)手入れC】
☆(注) 「友なさは高くわらひそ」:友よ、そのように高笑いするな。「愛しませる」:愛していらっしゃる。「うれふる」:憂う。
最終形態と違って、「青柳教諭」は先に立って歩いているのではなく、生徒たちに遅れて、一人だけ後から歩いて来る情況です。おそらく、中学生の時のじっさいの体験はそうだったのでしょう。
「羊」、「玉蜀黍」(トウモロコシ)、「シレージの塔」から、場所は小岩井農場であることが分かります。「赤きシレージの塔」は、育牛部・上丸牛舎のサイロです★:http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=164
山のほうから下りて来て、育牛部のサイロが見えてきたという描写から、この場所はまさに、「小岩井農場」【清書後手入稿】で、先ほどのメモの付いていた場所あたり──長者館耕地〜狼森付近だということが分かります。
★(注) 「シレージ」:サイレージ(silage)は、牧草や飼料作物をサイロで発酵させた家畜用飼料のこと。
「おもはざる軍[いくさ]に行かん」とありますが、小沢俊郎氏が苦労して調査した結果、青柳亮氏が、この年4月に就職してわずか半年あまりで退職しているのは、兵役のためであったことが判明しています。つまり、「青柳教諭」自身は盛岡中学にもっと長く勤めたかったのでしょうが◇、兵役のために故郷の島根県に呼び戻されたので、やむなく退職したのです。本人としては予想していなかったことで、「おもはざる」事態だったでしょう。「軍[いくさ]」とは、ここでは‘戦争’ではなく‘軍隊’の意味です◆。
◇(注) 青柳亮氏は島根県の出身で、大学は東京なのに、なぜ盛岡に就職したのか、何か特別な理由があったように思われます。憶測すれば、盛岡中学は、当時の文学青年の憧れだった石川啄木の出身校でしたから、そのために同校への就職を希望したのではないかと思います。つまり、青柳教諭は、英文科という専攻を見ても、文学青年だったのではないでしょうか。
◆(注) たしかに、小沢氏も指摘されるように、1910年は“大逆事件”と“韓国併合”という2大事件があり、国の内外が緊張した暗い年でした。青柳氏が石川啄木のファンならば、「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」と詠った啄木と同じ思いを抱いていたかもしれません。“韓国併合”は8月30日に新聞報道されました。また、晩年の賢治が、「青柳教諭」の「きよらかに頬痩せ青」む面影に、日本人でただひとり“韓国併合”を批判した啄木の姿を見ていたことは、考えられることです。しかし、実際に1910年当時(ロシアや清と)国家間戦争が勃発する危険があったわけではないと思います
また、「愛しませるかの女[ひと]を捨て」とあるように、青柳氏は、盛岡に愛する女性がいたのかもしれません。(あるいは、これは後年の賢治のフィクションかもしれませんが。)
いずれにせよ、青柳先生の退職は生徒たちにも、たいへん惜しまれたらしく、送別会が開かれています。
そういうわけで、賢治の中学生時代の体験としては、わずか半年間習った若い先生が、本人の望まない不意の理由で退職して行ったという、わりあいにありふれた事件に過ぎないのですが、
晩年になってから、賢治は、この体験にさまざまなモディフィケーションを加えて、ひとつの作品世界を作り上げているのです。たった半年間でありながら、「青柳教諭」は、よほど大きな印象を残していたことになります。
しかも、賢治が少年時代に接した他の宗教的指導者のように書簡などで言及されることもなく、晩年に至るまでほとんど触れられていないという点も、かえって気になります。
(つづく)
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「痩せて青めるなが頬は
九月の雨に聖[きよ]くして
一すじ遠きこのみちを
草穂のけぶりはてもなし」
(『文語詩未定稿』より)
文語詩〔青柳教諭を送る〕は、賢治作品の例に漏れず、幾度もの再考と改作を重ねて、↑上の最終形態にたどりついているのですが、
先駆形(いずれも、「小岩井農場」よりはずっと後のもの)の中から、目につくものを拾ってみますと:
「 青柳教諭を送る
秋雨にしとゞにぬれて
きよらかに頬瘠せ青み
師はいましこの草原を
ただひとりおくれ来ませり
羊さへけふは群れゐず
玉蜀黍[きび]つけし車も来ねば
このみちの一すじ遠く
雨はたゞ草をあらへり
友なさは高くわらひそ☆
愛しませる☆かの女[ひと]を捨て
おもはざる軍[いくさ]に行かん
師のきみの頬のうれふる☆を
南なる雨のけぶりに
うす赤きシレージの塔
かすかにもうかび出づるは
この原もはやなかばなれ」
【下書稿(1)手入れC】
☆(注) 「友なさは高くわらひそ」:友よ、そのように高笑いするな。「愛しませる」:愛していらっしゃる。「うれふる」:憂う。
最終形態と違って、「青柳教諭」は先に立って歩いているのではなく、生徒たちに遅れて、一人だけ後から歩いて来る情況です。おそらく、中学生の時のじっさいの体験はそうだったのでしょう。
「羊」、「玉蜀黍」(トウモロコシ)、「シレージの塔」から、場所は小岩井農場であることが分かります。「赤きシレージの塔」は、育牛部・上丸牛舎のサイロです★:http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=164
山のほうから下りて来て、育牛部のサイロが見えてきたという描写から、この場所はまさに、「小岩井農場」【清書後手入稿】で、先ほどのメモの付いていた場所あたり──長者館耕地〜狼森付近だということが分かります。
★(注) 「シレージ」:サイレージ(silage)は、牧草や飼料作物をサイロで発酵させた家畜用飼料のこと。
「おもはざる軍[いくさ]に行かん」とありますが、小沢俊郎氏が苦労して調査した結果、青柳亮氏が、この年4月に就職してわずか半年あまりで退職しているのは、兵役のためであったことが判明しています。つまり、「青柳教諭」自身は盛岡中学にもっと長く勤めたかったのでしょうが◇、兵役のために故郷の島根県に呼び戻されたので、やむなく退職したのです。本人としては予想していなかったことで、「おもはざる」事態だったでしょう。「軍[いくさ]」とは、ここでは‘戦争’ではなく‘軍隊’の意味です◆。
◇(注) 青柳亮氏は島根県の出身で、大学は東京なのに、なぜ盛岡に就職したのか、何か特別な理由があったように思われます。憶測すれば、盛岡中学は、当時の文学青年の憧れだった石川啄木の出身校でしたから、そのために同校への就職を希望したのではないかと思います。つまり、青柳教諭は、英文科という専攻を見ても、文学青年だったのではないでしょうか。
◆(注) たしかに、小沢氏も指摘されるように、1910年は“大逆事件”と“韓国併合”という2大事件があり、国の内外が緊張した暗い年でした。青柳氏が石川啄木のファンならば、「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」と詠った啄木と同じ思いを抱いていたかもしれません。“韓国併合”は8月30日に新聞報道されました。また、晩年の賢治が、「青柳教諭」の「きよらかに頬痩せ青」む面影に、日本人でただひとり“韓国併合”を批判した啄木の姿を見ていたことは、考えられることです。しかし、実際に1910年当時(ロシアや清と)国家間戦争が勃発する危険があったわけではないと思います
また、「愛しませるかの女[ひと]を捨て」とあるように、青柳氏は、盛岡に愛する女性がいたのかもしれません。(あるいは、これは後年の賢治のフィクションかもしれませんが。)
いずれにせよ、青柳先生の退職は生徒たちにも、たいへん惜しまれたらしく、送別会が開かれています。
そういうわけで、賢治の中学生時代の体験としては、わずか半年間習った若い先生が、本人の望まない不意の理由で退職して行ったという、わりあいにありふれた事件に過ぎないのですが、
晩年になってから、賢治は、この体験にさまざまなモディフィケーションを加えて、ひとつの作品世界を作り上げているのです。たった半年間でありながら、「青柳教諭」は、よほど大きな印象を残していたことになります。
しかも、賢治が少年時代に接した他の宗教的指導者のように書簡などで言及されることもなく、晩年に至るまでほとんど触れられていないという点も、かえって気になります。
(つづく)
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