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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2013/06/26(水)
「同性愛者の初恋(1)」

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http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=163
http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=164
賢治は、“長者館2号”耕地の広大なスロープを登って行く「白い笠」の人の動きが気になって、

「姥屋敷へ行くのかもしれない。
 さうぢゃない働いてるのだ。」

などと思案しています。
しかも、

「笠は光って立派だが
 やっぱりこんな洋風の
 農場の中では似合はない。」

と、この人物が周囲の風景から浮き上がっているように感じるのです☆。

☆(注) じつは、“白い菅笠”は、農場の女性たちが日よけに着用したものです。さきほど行き会った女性たちもかぶっていたはずですが、賢治の美意識が菅笠を省略して描写していたのです(『賢治歩行詩考』pp.82,102-103)。この一人で歩いている「白い笠」は男性の傭員と思われますが、笠の着用自体は農場では通常の風景にすぎないのです。作者がここであえて菅笠に言及しているのは、この人物に、何か周囲との違和感を感じたのではないでしょうか。

【下書稿】には、このあたりの下方余白に、鉛筆で、「岩手山に関する追懐/青柳教諭」というメモが記されています。
青柳亮教諭は、1910年に盛岡中学校に赴任し、中学2年生の賢治らを教えた英語の先生★でした。当時21歳の若い先生で、東京外国語学校〔現在の東京外国語大学〕英語科をこの年に卒業して、11月まで盛岡中学に来ていたのでした。9月の秋分には、宮澤賢治ほか9名の生徒を伴って、前夜泊2日で岩手山に登山していますが、下山路は小岩井農場の中を通って小岩井駅へ下りるコースでした。

★(注) 盛岡中学校の正式資料によれば、教諭ではなく嘱託講師でした。「青柳教諭」に関するデータは、小沢俊郎「秋雨に聖く」,in:同『薄明穹を行く』,pp235-260.

おそらく、賢治は「白い笠」の人物を見ながら、「青柳教諭」との岩手山行を思い出したのだと思います。そこで、「青柳教諭」について、もう少し詳しく見ておく必要があります。

ずっと後の最晩年のことですが、宮澤賢治は、この青柳亮氏をモデルとする文語詩を遺しています:

「〔青柳教諭を送る〕◇

 痩せて青めるなが頬は
 九月の雨に聖[きよ]くして
 一すじ遠きこのみちを
 草穂のけぶりはてもなし」
 (『文語詩未定稿』より)

◇(注) 表題は、下書稿(1)からの転用。

果てしない草ぼうぼうの野原に、途絶えてしまいそうに心細く続いている一筋の小径、先に立って歩いてゆく教諭の細面の頬には、冷たい「9月の雨」が降りかかっています。血の気の失せた青年の青白い頬を伝う雫は、中学生の作者には、涙のようにさえ見えますが、教諭はしっかりと面(おもて)を上げて進んで行くのです。先生は、一人どこへ向かって行くのでしょう。送って付いてきた作者には、それは知るよしもなく、ただその聖(きよ)い面影だけが胸に刻まれるのでした──という感じでしょうか…

そういえば、「小岩井農場」【清書後手入稿】の、少し前(杉林道の写真の少し上)にも、次のようなパッセージがありました:

「こんな野原の陰惨な霧の中を
 ガッシリした黒い肩をしたベートーフェン◆が
 深く深くうなだれ又ときどきひとり咆えながらどこまでもいつまでも歩いてゐる。その弟子たちがついて行く
 暗い暗い霧の底なのだ。」

◆(注) 「ベートーフェン」は、ベートーヴェン(Beethoven)のこと。ベートーヴェンは低地ドイツのボンの出身ですが、苗字を高地ドイツ語(ウィーンなど)風に読むと「ベートーフェン」になります。

これは後から書き加えられた部分で、まだ詩行の区切りもできていない状態で残されていますが、『青柳教諭を送る』の最初のモチーフかもしれないと思います。
(つづく)
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