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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2013/05/30(木)
「税務署長の冒険(2)」

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http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1941_17444.html
http://c.fc2.com/m.php?_mfc2u=http%3A%2F%2Fwww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F000081%2Ffiles%2F1941_17444.html
前回もすこしふれましたが、この散文の宮沢賢治ならではの面白さのひとつは、作者のさまざまな作品のモチーフがあちこちに顔を出していることです。

まず、署長が村の探索を始め、小売酒屋で聞き込んで向って行く「産業組合」。
宮沢賢治の詩「産業組合青年会」(1924.10.5.定稿)には、地域の産業組合設立をめざす青年たちの会合を描いたものでしょうか:

「〔……〕
 部落部落の小組合が
 ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
 その聯合の大きなものが
 山地の肩をひととこ砕いて
 石灰岩末の幾千車を
 荒れた野原にそゝいだり
 ゴムから靴を鋳たりもする
 〔……〕
 これら村々の気鋭な同志会合の夜半
 祀られざるも神には神の身土があると
 老いて呟くそれは誰だ」

と詠まれています。
Wikiによりますと、

「産業組合とは、1900年に公布された産業組合法によって設立された日本の協同組合のこと。現在の農業協同組合、信用金庫、生協の母体となった。」

とあります。しかし、第2次大戦前においてとりわけ重要なのは、戦後の“農協”の母体となった農村の産業組合でして☆、
「その組織展開は、明治末から昭和初期にかけて活発に行われ、大正9[1920]年には組合数が対市町村数比にして110%を超え」たと言われています(河内聡子「産業組合メディアにおける学校の利用」
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/29230/1/LITERACYSHIKENKYUU_02_Kawachi.pdf
「産業組合」の行う事業には、@信用(組合員からの預貯金、生産・生活資金の貸付など)、A生産物の販売、B生産資材などの購買のほか、
C利用(組合員が個人では持てない生産施設を共同で設置し、利用する)がありました。
つまり、共同で農産加工の工場や作業場を持って、共同利用するということです。

☆(注) 農村の産業組合運動の歴史については、こちらがよくまとまっています:富奥郷土史編纂会・編『富奥郷土史』,付録:「日本農業協同組合発達史」,1975,富奥農業協同組合,http://tiikijiten.jp/~digibook/tomioku_kyoudo/index.php

じつは、従来の宮澤賢治研究では、このへんはあまり触れられない部分なのですが、
賢治が生きていた当時、周辺農村では産業組合運動が次第に多くの農家を巻き込んで進められていたと思われますし、賢治自身、農村の小組合や産業組合に対して多大な関心を寄せていたと思われます。
たしかに、賢治自身の実践は、産業組合に直接関わるものではなかったようです。賢治の「羅須地人協会」は、農業生産そのものよりも余暇の学習や芸術活動に関わる私塾ないし同好者の集まりでしたし、無料肥料設計や営農相談も個人的に行なっていたもので、産業組合に関わるものではありません。稗貫郡土性調査は郡の委託によるもの、農学校の教職は、郡視学羽田正★と郡長葛博の奨めによって就任しています。賢治の活動は、個人的なものでなければ、郡、県などの官庁人脈とつながるもので、
産業組合のような農民の自主的な(いわば‘草の根からの’)活動とは距離を置いていたのではないかと思われるのです。

★(注) 「小岩井農場・パート三」で言及されている「羽田県属」は、この羽田正氏のことと思われます:http://kdiary1.fc2.com/cgi-bin/d.cgi/giton/?dt=20130416&rpos=4

「産業組合」は草の根の活動であるだけに、そこには、一筋縄では行かないさまざまな障害もあったと思われます。↑上の賢治の詩にも詠われているように、青年たちの発意が老人の頑迷な意見によって潰されてしまうこともあったでしょう。
賢治の‘芸術家’的な本性は、そうした地道な活動には馴染まなかったのかもしれません。1927-28年ころには、より‘過激’な小作人組合、労農党などの農村左翼運動に近づいて行くのですが、
それでも、「産業組合」などの地道な活動を担う青年たちとのつながりが途切れることはなかったと思うのです。1928年の共産党大弾圧(3・15事件)で労農党が壊滅し、「羅須地人協会」が休止状態に追い込まれたのちも、賢治はしばしば農村青年たちと農地の巡検に出かけたり、豊凶の気象予測を行なったりしていたことが、多くの詩作品に描かれています。それは、おそらく「産業組合」の関わりだと思うのです。
(つづく)
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