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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2013/05/27(月)
「すあしの子どもら(5)」

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http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=17&bkrow=0
http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=159
「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」という表現が両方にありますが、とりあえずは、
空高くから照って大地を暖めてくれるやさしい太陽
──という意味にとれます。
しかし、散文のほうをおしまいまで読んでゆくと、この‘菩薩のマヂック’という言葉には、特別な意味のあることが分かるのです:

「おや、このせきの去年のちいさな丸太の橋は、雪代水で流れたな、からだだけならすぐ跳べるんだが肥桶をどうしやうな。阿部君、まづ跳び越えてください。うまい、少しぐちゃっと苔にはいったけれども、まあいゝねえ、それではぼくはいまこっちで桶をつるすから、そっちでとってくれ給へ。そら、重い、ぼくは起重機の一種だよ。重い、ほう、天びん棒がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った。太陽マヂックなんだ。ほんたうに。うまい。〔…〕
楊の木でも樺の木でも、燐光の樹液がいっぱい脈をうってゐます。」

「天びん棒※がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った」ことを、「太陽マヂック」と呼んでいるのです☆。

※(注) 「天秤棒」を見たことがない人はhttp://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=158

散文のこの部分は、「小岩井農場」の

123ああ陽光のマヂツクよ
124ひとつのせきをこえるとき
125ひとりがかつぎ棒をわたせば
126それは太陽のマヂツクにより
127磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた

に対応します。「小岩井農場」を読んでいると、生徒たちがみな天秤棒をリレーで渡しているように読めますが、じっさいは散文のほうに書いてあるように、賢治と阿部、二人だけの‘秘められた’体験なのです。

☆(注) いままで三人称で呼ばれていた阿部時夫が、ここでいきなり二人称になることにも注目すべきです。この少年に対する作者の思い入れの強さが現れていると言うべきです。そして、「小岩井農場」のほうでは逆に、作者と少年との私秘的な体験をカモフラージュするかのように、「ひとりが」「もひとりの」と、両者ともに三人称(ないし不定人称「ひと」)に、されているのです。

そこで、具体的に、小川を堰き止めた細長い池を飛び越そうとしている場面を、思い浮かべてみてください。賢治は、長い天秤棒の片端を下腹にあて、両手で握って支えています。棒の先には重い肥え桶(カラの)が吊るされています。その棒の先が、池の向こう側にいる阿部少年の手に「磁石のように……吸い着い」たというのです。
上手な言い方を思いつかなくて申し訳ないのですが、賢治の格好は何かを象徴していないでしょうか?勃起した長大な男性器が「磁石のように君の手へ吸い着いて行った」という隠れた意味をもつ表現になっていることは否定できません。
賢治自身は意識していない可能性もありますが★、この程度の深層心理的解釈は許されると思います。
『太陽マヂック』で、作者が阿部少年を誘って、他の生徒たちとは違う道を通って学校に戻ったのも、二人だけの時間を過ごすためだったと解せます。

★(注) 森惣一によれば、宮澤賢治はハバロック・エリスの『性学体系』を読んでフロイトの精神分析をよく知っていたと云いますから(『新校本全集』第16巻(下),補遺・伝記資料篇,p.372)、この部分も、意識して性的願望の表現として書いている可能性を否定できません。

このように、散文『太陽マヂック』の中心的テーマは、作者が共感しあえる少年に対して抱いた同性愛的感情です。
そして、「小岩井農場」の↑上のパッセージもまた、ぼかして書いてはいるものの、‘四月’の同じ実習体験を述べている以上、同じ同性愛感情の体験を想起しています。

賢治は、‘菩薩のマヂック’という表現によって、そうした感情を肯定しようとしているのです。‘光炎菩薩’太陽からさんさんと注いで来るやさしい春の陽気のなかで、作者と少年の二人の心は融け合い「磁石のように…吸い着」き合った、と言うのです。
同性愛的感情を、仏教的な観念で装うことによって受け入れようとするのは、宮沢賢治の作品にしばしば見られる道具立てです。以前に取り上げた〔峯や谷は…〕〜『マグノリアの木』にも、それは現れていました。のみならず、賢治の描く天上界の人物は、ほとんど常に、綺麗な「すあし」を見せる男性だったり、うすぎぬと瓔珞だけを身にまとった裸体の少年たちだったりと、多分にエロチックな相貌で現れます。こうしたことが、作者の同性愛志向と無関係だとは思えないのです。
(つづく)
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