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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2013/05/21(火)
「すあしの子どもら(1)」

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http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=16&bkrow=0
そこで、101行目「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」以下のパッセージについて、岡澤氏の解釈を引用してみます:

「〈誰かがついて来る/ぞろぞろ誰かがついて来る/うしろ向きに歩けといふのだ〉と下書稿に書いています。まだ姿は確認できませんが、音声で子供だと分かったのです。子供らは、四つ森の手前から少し坂道が急な勾配になるので、みんなで声を掛け合っています。賢治が後ろ向きになって見たとき、子供たちは四つ森の坂を登りきって、先頭の子供が頭を出し順次に子供たちの上半身が見えたところでした。ちょうど坂の上には陽炎が燃えていて、子供たちが陽炎に包まれたのでしょう。
  たしかにたしかに透明な
  光の子供らの一列だ。
  ……………………
     (下書稿)」
 (『賢治歩行詩考』pp.67-68.)

http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=154
こちらの2枚目の地図「下丸5〜8号拡大図」を見ていただきたいのですが、
いま作者が立っているのは、赤矢印「→」の近くの農道の上です。
さきほど、「雑木散生地」のほう(赤矢印「↑」付近)から‘聖なる地’下丸7号を見渡して、いちばん奥の「へ3」に‘幽霊桜’があるのを見たあと、
地質時代の幻想に耽りながら四ツ森を越えて北上し、「→」まで歩いて来たのでした。
その時、作者の後ろから──南の「雑木散生地」のほうから、小学生の一団が追いついて来ました。
いなかの子供は脚が強いですから、ぶらぶらと思索に耽って歩いている作者よりも、相当に歩速が速くてもおかしくはありません。
現場は、(南から来ると)四ツ森のあたりで上り坂になっているそうです。したがって、作者の位置から振り返って見ると、あとから来る子供たちは、まず四ツ森あたりの坂の地面に頭が見え、次第に上半身から見えて来、つぎにその後ろの子供の頭→上半身→脚というように見えて来るはずです。
そして、ちょうど昼過ぎの時刻で(作者の乗って来た列車は、小岩井駅10時54分着でした)、道にも野原にもゆらゆらと陽炎(かげろう)が立っています。陽炎で揺れて光る子どもたちの姿を遠くから見て、「透明な/光の子供らの一列」☆と言ったのです。

☆(注) 「一列」とは、縦列でしょうか、横列でしょうか。農道はそんなに広くないので、縦列と考えられます。

この農道をさらに北へ歩いて行った先には、農場員の子弟が通う「小岩井尋常小学校」がありました。「場内小学校」とも呼ばれていました:http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=158

この日(5月21日)は日曜日で学校は休みなのですが、岡澤氏によると、毎年6月6日は農場の創業を祝う“農場記念祭”で、1917年からは、記念式典のあとで、場内運動会が開催されていました。『小岩井会会報』に載っている回想記から拾ってみると:
「何としても忘れられないのは農場創立記念祭であった。農場の人達と合同の運動会、私は小一から高二★卒業まで毎年徒競争で一位。半紙三帖の賞品、一番喜んだのはおふくろであった」「ボコボコした土に引かれた白線と一生懸命に走っている子供の姿、ゴールのテープの白さと一等、二等、三等の旗を手に、嬉しそうに賞品をもらうみんなの姿、そしてもらった賞品をソットのぞいてみたものです。」
約2週間後に迫った記念祭のために、日曜でも子供たちは駆けっこやお遊戯の練習をしに学校へ集っていました(『賢治歩行詩考』pp.70-71.)

★(注) 高校2年ではなく、高等小学校2年、尋常小学校に6年通ったあと高等小学校を2年修学するのが、当時の庶民が受けた教育でした。

当時、記念祭が近づくと、大人の場員でも「余興準備ニ忙殺セラル、夕余興稽古ヲナス」と記録されているほど楽しみにした行事でした。まして子供たちは「血が騒ぎ」(岡澤氏)、運動会の練習に学校へ行くにも、「はしったりうたったり/はねあがったり」(「パート四」116-117,139-140行)しながら歩いたとしても決しておかしくはないのです。
賢治が描いている「光の子供ら」は、まさに現実そのままの光景だったのです
(つづく)
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