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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2013/05/14(火)
「さくらの幽霊(4)」

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しかし、ギトンがさらに気になるのは、
なるほど「パート九」で戻って来る時には、「聖なる地」と呼称し、「なにとはなしに聖いこころもちがして」(42行目)などと書いていますが、
http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=26

往きの「パート四」では、そんなことは書いていないのです。かえって、「四本のさくら」を「幽霊」と言い、「四五本乱れて」「なんといふ気まぐれな」などと、けなすような書き方さえしているのです:http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=15

つまり、作者の往きの心持ち、風景の見え方と、帰りの作者の心持ちとの間には、大きな違い──大きな転換があることが明らかです。

その転換とは何なのか?
おそらく、これを解明することが、作品「小岩井農場」の隠れたテーマを発見することに繋がるのではないか★──
このように思われるわけです。

★(注) 岡澤氏は、この‘転換’を、一種の陰陽(おんみょう)学的なイニシエーションを賢治が通過したと考えておられるようですが(『賢治歩行詩考』pp.113-119.)、ギトンとしては、白紙のまま「パート四〜九」を分析して行きたいと思います。そのさい、賢治の‘往き’と‘帰り’の詩句を比較するという岡澤氏のすぐれた着想は鍵になると考えます。

http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=15&bkrow=0
さて、「いま見はらかす耕地のはづれ」以下、「パート四」の終結までの部分は、「さくらの幽霊」に始まり、「さくらの幽霊」で終っています:

71いま見はらかす耕地のはづれ
  向ふの青草の高みに四五本乱れて
  なんといふ氣まぐれなさくらだらう
  みんなさくらの幽霊だ
  …………………………
  むら氣な四本の櫻も
  記憶のやうにとほざかる
  たのしい地球の氣圏の春だ
  みんなうたつたりはしつたり
140はねあがつたりするがいい

http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=18&bkrow=0

それほど、この4〜5本のオオヤマザクラは心象の重要なオブジェなのです。
この「さくらの幽霊」のスケッチに挟まれた「パート四」後半部分は、次のような構成になっています:

行番号  内 容

71-77 スケッチ「さくらの幽霊」
  
78-82 独白「天のうつろのなかへ…つきすすみ…」
  
83-88 幻想:ジュラ紀・白亜紀の林底
  
89-100 独白「いまこそおれはさびしくない」
  
101-108 幻想的スケッチ「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」
  
109-110 スケッチ「五本の透明なさくらの木」
  
111-117 独白的スケッチ「わたくしは白い雑嚢をぶらぶらさげて」
  
118-128 想起:『太陽マヂック』断片
  
129-133 幻想的スケッチ「どのこどもかが笛を吹いてゐる」
  
134-140 スケッチ「みちがぐんぐんうしろから湧き」〜「むら氣な四本の櫻」


つまり、一見して明らかなように、「さくらの幽霊」という眼前の風景をいわば出入り口にして、もっぱら作者自身のなまの心情を述べた‘独白’部分、地質時代などの幻想世界、そして過去の体験の生き生きとした想起へとトリップしているのです。
そのなかで、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」と「どのこどもかが笛を吹いてゐる」は、内容はきわめて幻想的ですけれども、じつは賢治がその時歩きながらじっさいに見た現実の光景に基づいていると思われます☆。つまり、賢治は、回想したり、心中で独白を述べたり、幻想に耽ったりしながら、ずっと歩行を続けているわけです。

☆(注) のちほど説明します。なお、『賢治歩行詩考』pp.67-73.参照。
(「恐竜の森」へ、つづく)
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