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ギトンのあ-いえばこ-ゆ-記(旧)

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ここは、2015.3.10.までの過去日記倉庫です。

2013/03/29(金)
「新鮮な奇蹟(6)」

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賢治は、10年近くのちの1931年、東北砕石工場の技師として石灰岩末の販売に奔走していた時に、小岩井農場へも売り込みのために訪れたと想像されます。
次の詩(下書稿)は、その際の情景ではないかと思われます:

「雲影滑れる山のこなた
 樺の林のなかにして
 黒きはんかち頸に巻きし
 種畜場の事務員と
 エプロンつけしその妻と
 楊の花のとべるがなかに
 まぶしげに立ちてありしを
 赤靴などはき
 赤き鞄など持ち
 また炭酸紙にて記したる
 価格表などたづさえて
 わが訪ひしこそはづかしけれ
 今年はすでに予算なければ
 来年などと云ひしこと、
 山にては雲かげ次々すべり
 楊に囲まれし
 谷の水屋絶えずこぼこぼと鳴れるは
 げにわがいかなるこゝろにて
 訪はゞ心も明るかりけん。」
(『補遺詩篇U(孔雀印手帳)』より)

これが、小岩井農場での応対を詠んだものだとすれば、
賢治は、石灰による土壌改良を行なっている小岩井農場ならば大量に仕入れてくれるものと素朴に期待して訪問したようです。しかし、農場では毎年購入している仕入先がすでにあるのですから、別の製造業者がそうたやすく参入できるはずもないのです:「今年はすでに予算なければ/来年などと云ひしこと、/〔……〕げにわがいかなるこゝろにて/訪はゞ心も明るかりけん。」
農場の事務員の応対に打ちのめされているようすがうかがわれます。
当時、農場では八戸方面から石灰を仕入れていたようです。「来年などと云ひ」ながら、実際にはほとんど希望のない応対だったのではないでしょうか。

賢治は、この時に至るまで、小岩井農場に対して、いわば夢のような過剰な期待を抱きつづけていたのかもしれません。農場はあくまでも企業なのですから、単に志が一致するというだけで何にでも応じるわけではないのです。
しかし、それだからといって、
1922年の長詩「小岩井農場」の時点で、賢治が農場に対し抱いていた理念的な期待が的外れだったことにはならないと思います。

「農学士」を乗せた馬車に追い越され、「うしろからはもうたれも來ないのか」と淋しく思いながらも、
http://id43.fm-p.jp/530/giton/index.php?module=viewbk&action=ppg&stid=1&bkid=990474&pgno=4&bkrow=0

「みちはまつ黒の腐植土で
 雨あがりだし彈力もある
 馬はピンと耳を立て
 その端は向ふの青い光に尖り
 いかにもきさくに馳けて行く」(4ページ)

と、農場のハクニーへの賛辞を忘れません。

「冬にきたときとはまるでべつだ
 みんなすつかり變つてゐる
 變つたとはいへそれは雪が往き
 雲が展けてつちが呼吸し
 幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ
 あをじろい春になつただけだ
 それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
 すみやかなすみやかな萬法流轉のなかに
 小岩井のきれいな野はらや牧塲の標本が
 いかにも確かに繼起するといふことが
 どんなに新鮮な奇蹟だらう」(6ページ)

ここでは「あをじろい春になつただけだ/それよりも…」と、比較表現が使われていますが、賢治の心象スケッチでの比較表現は一種の修辞であることが多く、額面どおりの《A<B》とは受け取らないほうがよいと思います。むしろ文脈に即していえば、《AのみならずB》《Aが地で、Bが図》→AがBを浮き立たせる関係になっていると思うのです。
冬から春への・沸き立つような季節の移り行き(A)の中で、
小岩井農場の整備された「野はらや牧塲の標本」が「いかにも確かに繼起するニいふこと」(B)に対して、
「どんなに新鮮な奇蹟だらう」という最大級の賛辞を贈っています。このようになるまで数十年にわたって、採算の合わない地道な土壌改良工事や開墾、造林の努力が積み重ねられてきたことを、よく知っていればこそ贈ることができる賛辞なのです。


画像:http://kinunomichi.churaumi.me/
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