山暮らしを綴ります。
2014/04/17(木)
「ドッキリパーティ成功」
昨日のパーティー話のつづきだが、
私たちが8年前、村人の中で初めて知り合ったのは、もちろんTさんご夫婦であった。
Tさんご夫婦は、以前にレストハウスを経営していたご夫婦で、私たちに変わってからも、蕎麦はご夫婦が作ってくれており、蕎麦粉にして店に卸してくれている。店では、Tさんご夫婦の作ってくれた蕎麦粉のみを使っている。
店の運営を知り尽くしているから、何でも相談にのってくれ、アドバイスをくれ、何でも惜しみなく教えてくれ、私たちには、なくてはならない存在です。
しかし、今年のワカサギシーズン中に、奥様が長期入院してしまい、旦那様は一人暮らしを余儀なくされ、こんな時こそ、ご恩返しをしなければならないのに、私たちはワカサギシーズン真っ只中だった。
頭には想ってはいたが、お見舞いに伺いもせず、一人暮らしになった旦那様に、お弁当を届けるぐらいしかできなかった。
結局、ワカサギシーズンが終わって数週間後に、奥様は無事退院してきたのですが、レストハウス全員が、何かとお世話になっているTさんご夫婦の快気祝いをしようじゃないか!と、マスターが発起し、実行の夜が昨晩だった。
Tさん宅に、いつものように、フラッとマスターがお茶のみにお邪魔したと思わせて、Tさんが玄関を開けると、実は、Tさんのお友達や、レストのメンバーも、み〜んな来てた!って設定でしたが、見事に、バレずに、その通りになりました。
Tさん宅の近所に駐車し、合図があるまで見つからないように、隠れたつもりでも軽トラが見えている、初老のお友達二人の姿が面白かった。
地域の人に見られたら、「何してる?」って言われてしまうよね。
Tさんは、皆の顔を見て、「なにが、起ぎだのが(・・?」って心配顔でしたが、
「快気祝いに、部屋貸してちょーだい!」と、アレヨアレヨと、皆が上がり込み、持参の料理を並べ、グラスを並べ、宴会が始まったのだった。
その後は、「快気祝い」と称する、ただの、いつもの、飲み会になってしまったが、久しぶりに、仲間が集った夜となった。
話はブッ飛ぶが、Tさんご夫婦と知り合った時、私は31歳だった。
私が、どんだけ幼く見えたのか、どんだけ貧困に見えたのかは知らないが、その年のお正月に、Tさんご夫婦が私にお年玉≠くれたのだった。
三十路を過ぎた私に、お年玉をくれるのは、実家の今は亡き祖母だけだったが、全くの他人様から頂いたのは、後にも先にもTさんご夫婦だけだ。
私は、一生忘れない。
三十路の私にお年玉をくれて、「これから大変だろうけど、頑張ってね。」と、励ましてくれた人がいた事を。
当時私は、店の経営の仕方も手探り状態で、電卓を叩く程に、とんでもない仕事に手を出してしまった!と、心に全く余裕なく生きていて、他人様から受ける優しさが、嬉しさよりも痛く感じて、自分の現状を情けなく思ったものだ。
全くの他人だし、次の経営者なんか、転ぼうと失敗しようと関係なく、面倒を見る義務もないのに、Tさん夫婦は、何でも教えてくれたし、相談にも乗ってくれた。
(いつか、こんな人に自分もならねば)と思った事を、今でも覚えている。
簡単ではないが、最終的には、そんな自分になっていたいと思う。
私の持論だが、家族や身内への手助けや、思いやりや、愛情は、あって当たり前。
それ以外の他人様と、如何に関わり、素晴らしい関係を築いていける人生を送るのかが、自分の生きざま、そのままが映し出されるんであろうと思う。
素晴らしいと言うと、キレイ過ぎるが、時にはケンカしたり、疎遠になったり、敵になったり、山あり谷あり・・でも、最終的に心通じ合える関係が築ければ、それでいいのだ。
その積み重ねが、心の財産になっていくんだろう。
まだまだ旅の途中の若輩者で、わかんないけど、今はそんな事を思っている。
とにかく、ドッキリ大作戦は、大成功でした。
その後の二次会も、他人様のお宅にお邪魔して、そのお宅の奥様にとっては、迷惑ドッキリ!を掛けてしまいました。
私たちも、山暮らし8年目。
突如、薮川に現れた私たちを、お宅にまでお邪魔させてくれる地元の方々も少々いるからこそ、頑張る力も湧いてきます。
少々は、いつか大きな大輪になりますように。
私たちが8年前、村人の中で初めて知り合ったのは、もちろんTさんご夫婦であった。
Tさんご夫婦は、以前にレストハウスを経営していたご夫婦で、私たちに変わってからも、蕎麦はご夫婦が作ってくれており、蕎麦粉にして店に卸してくれている。店では、Tさんご夫婦の作ってくれた蕎麦粉のみを使っている。
店の運営を知り尽くしているから、何でも相談にのってくれ、アドバイスをくれ、何でも惜しみなく教えてくれ、私たちには、なくてはならない存在です。
しかし、今年のワカサギシーズン中に、奥様が長期入院してしまい、旦那様は一人暮らしを余儀なくされ、こんな時こそ、ご恩返しをしなければならないのに、私たちはワカサギシーズン真っ只中だった。
頭には想ってはいたが、お見舞いに伺いもせず、一人暮らしになった旦那様に、お弁当を届けるぐらいしかできなかった。
結局、ワカサギシーズンが終わって数週間後に、奥様は無事退院してきたのですが、レストハウス全員が、何かとお世話になっているTさんご夫婦の快気祝いをしようじゃないか!と、マスターが発起し、実行の夜が昨晩だった。
Tさん宅に、いつものように、フラッとマスターがお茶のみにお邪魔したと思わせて、Tさんが玄関を開けると、実は、Tさんのお友達や、レストのメンバーも、み〜んな来てた!って設定でしたが、見事に、バレずに、その通りになりました。
Tさん宅の近所に駐車し、合図があるまで見つからないように、隠れたつもりでも軽トラが見えている、初老のお友達二人の姿が面白かった。
地域の人に見られたら、「何してる?」って言われてしまうよね。
Tさんは、皆の顔を見て、「なにが、起ぎだのが(・・?」って心配顔でしたが、
「快気祝いに、部屋貸してちょーだい!」と、アレヨアレヨと、皆が上がり込み、持参の料理を並べ、グラスを並べ、宴会が始まったのだった。
その後は、「快気祝い」と称する、ただの、いつもの、飲み会になってしまったが、久しぶりに、仲間が集った夜となった。
話はブッ飛ぶが、Tさんご夫婦と知り合った時、私は31歳だった。
私が、どんだけ幼く見えたのか、どんだけ貧困に見えたのかは知らないが、その年のお正月に、Tさんご夫婦が私にお年玉≠くれたのだった。
三十路を過ぎた私に、お年玉をくれるのは、実家の今は亡き祖母だけだったが、全くの他人様から頂いたのは、後にも先にもTさんご夫婦だけだ。
私は、一生忘れない。
三十路の私にお年玉をくれて、「これから大変だろうけど、頑張ってね。」と、励ましてくれた人がいた事を。
当時私は、店の経営の仕方も手探り状態で、電卓を叩く程に、とんでもない仕事に手を出してしまった!と、心に全く余裕なく生きていて、他人様から受ける優しさが、嬉しさよりも痛く感じて、自分の現状を情けなく思ったものだ。
全くの他人だし、次の経営者なんか、転ぼうと失敗しようと関係なく、面倒を見る義務もないのに、Tさん夫婦は、何でも教えてくれたし、相談にも乗ってくれた。
(いつか、こんな人に自分もならねば)と思った事を、今でも覚えている。
簡単ではないが、最終的には、そんな自分になっていたいと思う。
私の持論だが、家族や身内への手助けや、思いやりや、愛情は、あって当たり前。
それ以外の他人様と、如何に関わり、素晴らしい関係を築いていける人生を送るのかが、自分の生きざま、そのままが映し出されるんであろうと思う。
素晴らしいと言うと、キレイ過ぎるが、時にはケンカしたり、疎遠になったり、敵になったり、山あり谷あり・・でも、最終的に心通じ合える関係が築ければ、それでいいのだ。
その積み重ねが、心の財産になっていくんだろう。
まだまだ旅の途中の若輩者で、わかんないけど、今はそんな事を思っている。
とにかく、ドッキリ大作戦は、大成功でした。
その後の二次会も、他人様のお宅にお邪魔して、そのお宅の奥様にとっては、迷惑ドッキリ!を掛けてしまいました。
私たちも、山暮らし8年目。
突如、薮川に現れた私たちを、お宅にまでお邪魔させてくれる地元の方々も少々いるからこそ、頑張る力も湧いてきます。
少々は、いつか大きな大輪になりますように。